〒899-6405
- 出身地
- 鹿児島県姶良郡溝辺町(現在 霧島市溝辺町)
- 生年月日
- 1974年1月31日
- 経歴
- 溝辺町立 竹子小学校 卒業(「たかぜ」)
- 溝辺町立 溝辺中学校 卒業
- 鹿児島県立加治木工業高校 建築科 卒業
- 大阪工業大学短期大学部建築学科 卒業
- 大阪府淀川区 ゼネコン建設会社 6年間
- (有)アイランド工業 入社
- 代表取締役に就任 現在に至る
私の育った環境
祖父や祖母が育った母屋に両親と兄弟3人
父や母は本当に毎日働いていて、隣に祖父母の住む家があったので、
通知表なども祖父母の所へほめてもらおうと父母よりも先に持っていき、卵をいれたインスタントラーメンを食べさせてもらうのがなぜだかとても印象に残っています。
祖父は、戦争も経験していましたが私達にはあまり詳しい話はしてくれませんでした。
「あそこにも行った」とかは話してもらっていましたが、「どんな生活だったのか。どんな戦いをしていた」などといった話を聞いた事がありませんでした。
兵隊から帰ってきて牛を育てながら農家をしていて、野菜やたばこを作っていたそうです。
ですから、家の前には大きいたばこ乾燥用の小屋がありました。今となっては、戦争とはどんなものなのか?どんな気持ちで戦っていたのか?どんな生活環境だったのか?など、もっと聞いておきたかったな。
私は、身近に祖父がいたのにドラマや映画などからしか戦争を知りません。私達の重要な時代背景である戦争は、祖父にとっては辛く話したくない事だったかも知れませんが、もっと知り語り継がなければならない事のひとつだと思っています。
父は、中学校卒業後、地元で師匠について大工を学んだそうです。その後、大阪と神奈川で住宅メーカーの大工をしていたそうです。母も同じ小学校からの同級生で結婚後も神奈川で生活していたそうですが、祖父がバイクで交通事故にあって、鹿児島に帰って来てから私が生まれたそうです。
創り上げていく物が形になり住まいとなる喜び
私は長男で、二つ下に妹が生まれましたが生後1週間で亡くなったそうです。三つ下に弟。四つ下に妹がいます。
父は結構私達の教育にも厳しい方で、夕食時にテレビは付けてもらえませんでしたが、「水戸黄門」だけは特別扱い、みんなで見ていました。
また、なにか手伝いをしていないと「おかずなし」というルールがあって、3人で庭そうじや風呂たき、洗濯物の片付けなどを分け合ってして、夕食前に発表してから食べていました。
また、日曜日等は 現場につれていってもらったり、畑仕事を一緒にしたりという中で、父の仕事をしているのを見てやっぱり建築関係の仕事を!と思っていました。
今でこそ「大工」という仕事も子供たちの夢の上位になっていますが、大変な仕事だったと思います。ただその反面、創り上げていく物が形になり、住まいとなる喜びもこの時に感じる事が出来ました。
今思うと、祖父母に支えられながら、厳しいながらも家族の大切さを毎日感じながら生活していたなーと思います。
プロフィール
弓道で「心・技・体」の精神と「知・運」を学ぶ
1974年1月31日生まれ 鹿児島県姶良郡溝辺町竹子出身。
溝辺町立竹子小学校、溝辺中学校の卒業後、父の背中を見ていて自然と建築関係という事で、鹿児島県立加治木工業高校の建築科に入学しました。
高校時代は、中学校からしていた弓道一色!というぐらい朝連から、昼休み、バスの最終時間まで一生懸命でした。友達にも監督にも恵まれ、インターハイや国体の経験もさせて頂き、根性と「心・技・体」の精神に加え「知・運」と習い武道の精神を学んだ貴重な3年だったと思います。
私は早く働きたかったという思いと都会へ行きたいという思いだけでしたが、父が中卒で苦労した資格面の事もあり、また奨学制度を新しく取り入れて頂いていた大阪のコーナン建設㈱に就職と夜間大学の大阪工業大学短期大学部の建築学科の入学と進路を決めました。
現場希望をしましたが、夜学の時間の配慮で見積部に配属されましたので、DOSの頃からのパソコンを仕事でさわる事ができました。
見積部では、多種多様の図面を熟読していかなければならない仕事で建築の重要な、図面からの立体的感覚を養うことが出来た上に、パソコンも使う事で、今でも大切な経験をさせて頂きました。
夜学では、疲れた体の上に眠たい中3時間の講義と片道1時間の通学で寮に帰っていました。現場の方もそれぐらいに帰ってきていましたけどね。夜学の卒業後、すぐに2級建築士の受験資格があり、合格しましたが、そのまま見積部でした。
父と弟に誘われ鹿児島への帰郷を決意
大阪で、夜学の友達の紹介もあり、現在の妻と出会い付き合っていました。
父は、私が大阪に行った年に野村建築から、有限会社にし、建設業許可もとり会社としての基盤を作っていました。弟も大工の職業訓練高を卒業し、父と一緒にしていたのですが 父の誘いと弟との2時間近くになった電話での話し合いにより、鹿児島への帰郷を決意しました。
妻との付き合いは1年半ぐらいしか経っていませんでしたが、ダメもとぐらいの気持ちで妻に鹿児島についてきてくれるかと口説いてお願いしました。
現在は、鹿児島に帰ってきてから13年目になり、妻と陵南中学校1年生と陵南小学校3年の娘に囲まれながら、子供の教育なども悩みながらも家族の絆を感じながら生活しています。
建築業を経験して
お客様と対面して感じる要望とニーズを模索
私が鹿児島に帰って来たときは、景気も悪くなった時で、父の知り合いの大工さん達からは
「なぜ!この時期に帰ってきた!」
などと言われ夢を持っていた私にとってはとても印象的な言葉でした。
私は、大阪での経験を生かし、緻密な見積や計算をしながら、鹿児島の木造住宅と現場を肌で感じながら、またお客様との対面で感じる、要望とニーズに対し模索をしていました。
お客様にとって、住宅は毎日過ごす環境であって、大阪等の都会に比べ現金収入だけでない生活環境と、景気の悪化につれ、「いいものでよりやすく」という思いに加え、リフォームの悪徳業者や耐震偽装事件にも啓発された安心に対する思いを直に感じさせて頂きました。
「衣・食・住」の仕事に携わらせて頂いている身、安心は絶対条件の中、「いいものでよりやすく」という思いは、一部矛盾もありますが、これを追求する事が私の使命でないかと思っています。この課題は、そう簡単に答えが出るのでなくお客様の環境や思いで変動するものであってお客様も悩みながら模索している部分では無いかと感じます。
新しい技術と商品を敏感に情報収集し、希望の住まいを設計
この中で、一生に何度もない住宅をご提案させて頂く時は、自分の考えを押し付けるのでなく、お客様と一緒に悩みながら納得するまで、何度でも図面を書き直す、という思いで住宅の仕事に携わらせて頂いています。
住宅に関わる建材の種類は無数にあり、日々新しい技術と商品が開発されています。敏感にその情報収集をし、いろいろな法制度も勉強しながらお客様が望んでらっしゃるカタチを模索します。
正直、時間も掛かりますが その時間も大切だと思っています。お客様も親戚やお友達の住まいを見て、体感され自分たちの家族に合うのか、じっくりと考える時間が必要なのだと思います。ですから、お客様も本当にいろいろなパワーが必要です。
住宅メーカー等の様に展示場を構え事前にその生活を完全に体感され、お客様のニーズと合致されれば一番いいと思います。
しかし、展示場は夢を与えるだけの空間になりがちで現実的な空間として難しい場合が多いと思います。ましては、その空間に掛かる経費は、お客様の住まいの経費に上乗せするしかメーカーは維持できません。それでは、私の考えるニーズに合致しません。
何度でもじっくりと一緒に考えシュミレーション
どんな提案が正解なのか?とても難しいと思います。
ですから、「三軒建てたら、納得のいく家ができる」という話があるのだと思います。
三軒なんて一般人で、転売等が難しい田舎では正直無理です。だから、何度でもじっくりと一緒に考えシュミレーションする事が大切なのではないかと思っています。
そして、建築中でも、何でも言える仲が大事だと思っています。
だから、営業担当、公務担当として分けるのが効率的かもしれませんが、それではいけないと感じました。
だから、生みの親は最後まで、成人してからもずっ~と見守れる人が必要なのだと思っています。
無料相談もしております。是非お気軽にお問い合わせください。